スメラルドの花言葉

防弾少年団に転がりついたアラサー。

自己肯定感と回避の魔物

自己肯定感が高い、低いは優劣ではないと思っている。


自己肯定感が高いと、基本として自分を愛しているから自責するような痛みは少ない。
でもそこにも薄い地獄がある。


こうして私はずっと、このぐらいの自分のまま年を重ねて、その未来が孤独でも惨めでも、なんとなしに満足して生きて終わるんだろうという地獄。


たまに、自分の自己肯定感の本当の正体は「回避の魔物」じゃないかと疑うこともある。できない自分を認めるということは、果たして「逃げ」とどう違うのか?次頑張ろうということは、今頑張らない言い訳じゃないのか?
こうして地獄を考え始めた時に纏わり付く「でも、これが私だし今が幸せでしょう」という言葉。助けられているのか、呪われているのかは分からない。


自己肯定感が低い(と言う)人から見た時に、この地獄がどう映るかは分からない。だけど他人の地獄なんてそんなものだ。これも「回避の魔物」なんだろうか。


自己を肯定する場合、他者の肯定作業も同時に行われる。例えばよく描かれる「敵の正義」に代表されるように、世の中のことは全て優劣や善悪ではなく皆それぞれの正義や道なのだと。
ひとつひとつの違いを全て認め合っていく。


だから、人は誰とも群れにはなれず(一分の違いもない人間はいないから)私の人生という孤独な一本の道がただ真っ直ぐにあるだけだ。
私が考える自己肯定感、そして多様性への理解「みんな違って、みんな良い」はなによりも孤独で無関心な世界だ。


先述した「敵の正義」のように、すべての物事は善悪や優劣のどちらかではなく側面であり、両極を同時に持つと考え始めると正直なにもかもに興味が持てなくなる時がある。
どんなに他人が(あなたのためを思って、と人は言う)批判したって、その人がそうしたいなら、そうしたほうが良い。だってその人と私は「違うのだから」。他人の選択や人生を認めないことはできないでしょう。

ここにも、きっと「回避の魔物」が潜んでる。


私は一度そうして全てに興味を失ってから、現に他者を「認める」ことはできても「愛する」ことが難しくなったしこのままでは私の世界の全ての線が好き勝手に伸びて私の道の方向が分からなくなると感じて線引きを始めた。

 

例えば(これは全く得策ではないと思うが)「法律で決まった善悪は遵守する」とか。「血が繋がっている人は大切だ」とか。馬鹿らしいと思うかもしれないけれど、血が繋がってること以外に他人との繋がりを見出せなかった時の無茶苦茶な手探り線引きだ。


全てに対して、私のこれまでの人生の中で感じた曖昧な「良いと思う」「悪いと思う」を貼っていく作業、履き違えないか不安になりつつも他者への小さな「愛情」や「大切に思う」ことを「なぜ大切なのか?」と考えながら色をつける作業を今もまだ繰り返している。圧倒的に無の世界の中で。


私が見える世界では全ての人は「あなただけの」「認められた」交わらない孤独な道の中で生きていて、互いにその道から言葉を掛け合っている。その中で微妙な愛情とか、憎しみとか、小さな感情を向け合って。


だから私は「私だけに認められた私の道」が素晴らしく祝福された道だとは到底思えないし、正直ずっとずっとずっと孤独だ。人生に正解などないのだから、この先もきっとずっとそう。


自己肯定感に優劣がないというのはこういう意味で、孤独な感情をラベリングすることも他者と比較することもできないのだ。私は自己肯定感が強い自分のことを愛さざるを得ないし事実愛しているのだが、この道には誰もいなくて、満足と空虚でいっぱいだ。

 

LOVE MYSELFをすればするほど自分に満足し、利己的になり無関心に苛まれる。どこかで最低だと警鐘を鳴らす自分と、それを認めるという作業。

苦しんでいる人に「ありのままでいい」ということが苦痛だということはわかる。だけどありのままである以外の方法を私は知らない。

 

死にたいと苦しむことはない、死にたくなったときに「自分を受け入れて」そうすればいいのだから。いつか突然全てがなくなっても、受け入れるのだから。


自分が感じる自己肯定感はもしかして「回避の魔物」であるかもしれないという不安と同時に、こんなものは「回避の魔物」に過ぎず、本当の自己肯定感による「より良い人生」がどこかにあることを、適度に願っている。


成功も失敗も、正解も誤ちも
私にはどれもがあって、どれもがないのだから。